However well meant, they aren’t implicit in the story and the characters. They have not been “earned.” So they come out as preachy.
Ursula K. Le Guin
どんなに(映画のメッセージが)大切にされていても、それがストーリーやキャラクターに内在していません。メッセージが「(主人公たちの努力によって)獲得された」ものでなかったため、説教じみたものとして現れているのです。
アーシュラ・K・ル=グウィン
これは『ゲド戦記』の作者ル=グウィンさんが、宮崎吾朗監督の映画化作品に対して発したコメントの一部です。このコメントを読んだとき、これまで僕が感じてきた「説教臭いもの」がなぜ説教臭いのか、その謎が解けたような気がしました。
どんなに素晴らしい内容の話でも、読者や視聴者に強く共感させたり、納得させたりする内容でなければ、結局は醜悪なものになってしまうように思われます。教育関係によくある、漠然とした「うそ臭さ」の原因も、ここにあるような気がします。
僕がお勉強を教えているとある中学生の話です。とある本を読んで夏休みの間に作文を書かねばならないそうですが、それがさっぱり気乗りがしなくて、助けてほしいと言ってきました。大変優秀な子なので、本来読書感想文ごときに手こずるようなことはないはずでした。
その本はリーダーシップの養成を主眼とした本でした。各章は大変麗しい自己啓発的な内容で満たされていて、登場人物である中学生たちが次々とそれらを獲得し、立派なリーダーシップと高い向上意欲を発揮するようになる、という内容です。
ところがこの本は、大変重要な前提条件を獲得するパートが欠落していました。それは「リーダーになって、社会の中心として活躍することこそが重要」であるというものです。本のスタート地点での登場人物たちは、さまざまな人格上の欠点をもった普通の中学生ですが、この点でだけはなぜか皆一致した価値観を持っているのです。
多くの人は平凡な生活を望んでいるはずで、決して社会のリーダーたろうと思って生きているわけではないはずです。働くことにすら意義を見いだせない人も多い中、この本の内容は的が外れ過ぎていて、グロテスクですらあります。
大人から一方的に押し付けるのではなく、もっと子供たちの声に耳を傾けるような教育が求められているような気がします。こういう本が学校教育のテキストとして採用されているのを見るにつけ、大人らしくない大人の態度に違和感を覚えています。
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